2016年03月30日

ある一つの 「死」 と復活祭

先週の金曜日、私は一つの「死」を通過した。
そして翌朝、初めて自分が生まれてきた理由を思い出した。
 
何かを為すため、誰かの役に立つため、助けるため・・・
そういった 「する」 ためじゃなく、
 
「感じる」 ために生まれてきたのだということを。
 
 
大人になるにつれて、
「する」ために生きねばならないと思い込むようになった。
 
でもそのために
がんばって、努力しようとするほどに
 
どんどん自分という小さな枠の「中」に閉じ込められるようで
苦しくて、情けなくて、孤独で、辛くて、
結局は、誰のためにもならない事態を招いてしまってきた。
  
 
けれども、
「感じる」ために生きているとき、
 
私はいつも自分の「外」にいて、
身の回りにある草花や、空や、風や、猫や、家族や、川と繋がって
「ひとつ」 になれるのだ。
 
 
自分の「外」にいるとき、
この肉体という境界線を越えて世界と「ひとつ」になれるとき、
私は真に自由な人間でいられるのだ。 (!!!)
 
 
金曜日、自分のなかで何かが死んで
新たに死からこの生を見つめるようになり
 
私はまだこの生まれてきた目的を
十分に味わい切れていない、と思った。
 
 
「感じる」ために、
しかもこの肉体を持ったうえで「一体感」を感じるために  
 
これから改めて、生きてみようと思う。
 
  
そんな気づきを夫婦で分かち合ったのが日曜日。
 
「今日は復活祭だよ」と夫に言われ、
はっとしたのだった。
 
 
posted by 千晴 at 16:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 気づきの日々 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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