2009年11月30日

静かなイノチ

+ 気づきの日々 +   
今日はちょっと、舞台裏的なことを・・

本番まで一ヶ月を切り、
昨日は大阪公演の会場となる住吉人権文化センターで稽古がありました。

ここの大ホールは、去年も宮澤賢治の舞台でお世話になったのですが、
築30年の建物で、舞台装置や機材などもどうやら古いみたいです。

しかも、“人権”とか“部落解放”とか、今だに偏見を持たれているのか、
いつでも結構空いている・・

そんな大ホールなんですが、私は去年初めて中に入ったときから、(自分と同い年だし^^)
なぜか愛着のようなものを感じていて、楽屋やら、舞台裏やら、いろいろなところを覗いては
「よろしくね」って話しかけたり、ホ・オポノポノしたりしていました。


そして昨日、また一年ぶりに入って、みんなでいろいろと準備をしていたのですが、
照明とかに詳しい一人のメンバーが、多分あまり使われてこなかったであろう照明器具を
舞台裏から引っ張り出してきたり、天上に登って上のライトを調節したりしてくれたのです。

その灯りのおかげで、舞台空間にとてもいい雰囲気が生まれて。

一方私は、慣れない着物を“着せてもらう”のに四苦八苦するばかりで、(^^ゞ
「すごいね!いい感じになった〜!」
なんて傍で見ながらただ喜んでいたのですが、

その後、みんなで昼食をとっているときに、照明を手がけてくれた彼が、
ふとこう言いました。

「この会場、結構いいですね!
 確かに古いけれど、古いなりにも手を入れたらちゃんと動いてくれる。」

なんだかそれを聞いたら、私が嬉しくなってしまって。
(何もしてないのに。笑)

今まであまり使ってもらえず、静かに出番を待っていたこのホールや機材たちが、
彼の真心で息を吹き返し、キラキラと喜んで輝いているような気がしたのです。
さらには、真心を送った彼自身も、なんだか生き生きとしていて。
(Hさん、いつもながらほんとうにありがとう!)

ホオポノポノの本には、浄化が進むと“家”とも対話ができるようになるとあったけれど、
それって、きっとほんとうだと思います。

人だけでなく、この目に映るすべてのものは、自分自身でもあるってことなのかな。


このセンター、おそらく橋本改革の流れで来年からは名前も利用条件も変わるそうです。

すべてはうつろいゆくものだけど・・・

静かないのちを感じられるこの場所で、また再び舞台を創れることに感謝しながら、
残りの稽古に励んでいこう☆


★今年は託児もやってます♪
夕鶴 / 絵姿女房 12月23日(水・祝)
posted by 千晴 at 14:34 | Comment(4) | TrackBack(0) | 気づきの日々

2009年11月28日

人目 と 私

+ 気づきの日々 +   
子どもの頃の話です。

確か、親戚の家に遊びに行ったときのこと。
その家のおばさんが、子どもたちを連れて本屋に連れていってくれました。

「なんでも、好きな本を買ってあげるよ」

ときめいた子どもたちはそれぞれに欲しい本を探し始め、
これだと思うものを持って戻ってきました。

ところが、おばさんは私にだけ、こういったのです。

「まあ、なんて図々しい。」

軽蔑というのかなんというのか、その冷ややかな眼差しと一言は、
私の胸に深く突き刺さりました。

私だけ、本を二冊持っていたのです。

自分のしている行為が、「図々しい」ものであるということを、
そのとき初めて知りました。



こんな風に、
なにか背筋が凍りつくような、ハートがキュっと閉じ切るような、恥ずかしい体験を、
子どもの頃から数え切れないほどしてきています。

そうしていつからか思うようになったのですね。

「私の感性は、人と比べておかしいのかもしれない」
「私の言動は、無意識に人を不愉快にさせているのかもしれない」
「私は、注意していないと、人を傷つけてしまう人間なのかもしれない」と。


「人目」というものを、すごく気にするようになりました。
人目を恐れるようになりました。

常に、出会った人、ひとりひとりに好印象を与えること。
なるべく人とは、調和した温かい関係を築いてゆくこと。
人と揉めることや、喧嘩をするのは悪いことだから避けること。

これが、対人関係における私の基本スタンスになりました。


もうずっと長い間、
「隠れ?対人恐怖症」だったのですね。



でも、ようやく、このクセを乗り越える時期がやってきたようです。

人は自分の鏡であるということ。
すなわち、人が自分の言動に感じるすべてのことは、「その人のこと」なのだということが、
ほんとうに腑に落ちてきたのです。


 人が、どうしようと、何を言おうと、

 人に、理解や受容をされなくても、

 人から、非難や批判をされても、

 私という人間の尊さ、その輝きは、

 一瞬たりとも、傷つき得ない。


そうしてだんだん「人目」が私のエネルギーを消耗しなくなってきたら、
同時に自分という存在の、この無条件のとてつもない尊さと輝きが、
日に日に増して感じられるようになってきました。

そして、「優しくしてね?(私もするから)」っていう、
人への期待や要求もなくなってきた。^^*

人の言動に感じるすべてのことも、「私自身のこと」だから。


自他への判断をやめ、制限をやめて、どんどん広がっていこう。

私はただ、あるがままの私を生きるだけ。
大いなる川の流れに乗っかるだけ。

これ、すっごい楽ちん!


この転換によって、初めて内に芽生えてきたみずみずしい生命力。
そのダイナミックで力強く、流れるように自由なエネルギーを、
いまは少しずつ育てていきたいと思っています。


★あなたにも、このみずみずしい生命力を届けたい♪^^
夕鶴 / 絵姿女房 12月23日(水・祝)
posted by 千晴 at 00:14 | Comment(8) | TrackBack(0) | 気づきの日々

2009年11月16日

自分を愛する方法

+ 気づきの日々 +   
 「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい。」

プロテスタントの学校に通っていた10代の頃、
聖書の中で出会ったこのメッセージ。

そのとき、私のハートはキュっと縮こまる感じがしました。
「自己犠牲の愛」という意味に受け取ったのですね。

そして20代に入り、ある新約聖書学の先生と出会って、
このメッセージの意味が逆転しました。

 「なによりもまず“自分自身”を愛さなければ、
  隣人をほんとうに愛することはできないのだ」
、と。

その180度の転換で、
当時の私のこころはほんとうに大きく救われました。

「ああ、自分を愛してよかったんだ。まずはもっと、自分を愛したらいいんだ!」


でもね、そのときは、さらに大切なことに気づけなかったんです。

それは、

「自分を愛する方法」。



先日、ある友人に借りた本に、
「自分のコーヒーカップに、こぼれるくらいの愛を注ぐと、その愛が、
根っこのように地中を伝わって他の人たちにも注がれる」と書かれていました。

まさにこの「隣人愛」のことですよね。
ところが、もう、知っているはずのメッセージなのに、
読んでいたらなぜかボロボロと涙が出てきて。


それで気がつきました。
「自分を愛することが第一だと知っていたのに、私はその方法を知らないままだった!」

あの気付きから、10年が経っていました。

でね、それから探し始めたんです。
自分を愛する方法を。


その本を貸してくれた彼女は、
毎朝、鏡に映る自分に向かって笑いかけたり、褒めてあげたりするって教えてくれました。

早速やってみると、また涙がいっぱいこぼれてきて、
こころに強く作用していることを実感しました。


皆さんも、なにか知っている方法がありますか?


そして私が最近辿りついたのは、前回書いた「ハートを緩める」というものです。

こころの雑巾絞りをやめて、
(・・・たとえつい無意識にやってしまっても、絞られた状態に気がづいたらそのときに)
ふっと緩めてあげる。

私はこれができたとき、
いつも自分の内側が、静かに愛に包まれるのを感じるんです。


この“雑巾絞り”は、善悪の判断をするときに起こるようです。
聖書によれば、そもそも人は、「善悪を知る木の実」を食べたことによって、
エデンの楽園から追放されたのですね。

善い悪いという“判断”をするようになったから、
人は自分を制約し、愛せなくなってしまったのかな・・・


感情面でリラックスして、より楽な気持ちになること。
そして、“判断”をやめて、“自然なまま”の在り方に、身を委ねること。

うん、私のコーヒーカップも、
これからこぼれるほどの愛でいっぱいにしていこう♪



  アセンションは、感情と霊性に有害な作用を及ぼす“締めつけ”を課すのを止めた
  ときに起こります。
  そして、自身を解き放てばシフトが可能になり、あなたは広がりをもちはじめます。
  意識が拡大していき、存在それ自体も拡大していきます。

                        ボブ・フィックス


  重圧や心配事を解き放してください
  何事も「自分の責任」にして背負いこまないでください。
  地上の今のあり方から自由になり
  天のあり方へ移りましょう
  これがアセンションに不可欠の条件
  これがアセンションへいたる道

                        イオロスとパラ・アテナ

                            「アセンション 〜時は満ちて〜」より 




★舞台公演のお知らせ★

この冬、言語造形を始めて4度目の舞台に立ちます。
今回は初めてお芝居にチャレンジ!

人間のこころを潤す、生きたことばの魂を、
豊かな精神の世界から、どれだけ引き降ろすことができるか・・

  夕鶴/絵姿女房 12月23日(水・祝)

「つう」という天上人を通して、観る人に、精神の糧を届けられますように・・
皆さまのお越しを、こころよりお待ちしております♪

posted by 千晴 at 15:51 | Comment(10) | TrackBack(0) | 気づきの日々

2009年11月12日

go with the flow

+ 気づきの日々 +   
日々、自分の内側でいろんなことが起こります。

それは、些細なことでのイライラであったり、
自分でもびっくりするほどの感情の大爆発であったり、
あるいは何の根拠も見当たらない、寂しさや虚しさだったり・・・


今までは、それらに全部理由を付けて、あれこれ判断しては、
逃げよう、遠ざけよう、としてきました。
(だってすごく消耗するし、こころが痛むから。)

「もう二度と、こんな思いはしたくない。」

そしてさらには、その思いを抱いてしまう自分、それを繰り返す自分を、
責めていました。
「このままの自分ではいけないんだ。」という焦燥感を、いつも抱えて。

ところがそうやって、避けよう、逃げようとすればするほど、
“苦しみ”は増すばかりなのですね。



go with the flow

流れに身を任せなさい



自然に、

起こることが起こる。



先日、瞑想の師であるボブ・フィックスさんにお会いしたとき、
彼が会話の中でさりげなく言ったこのフレーズが、その日以来ずっと、
内側で響いています。
それはとてもとても温かで、愛に満ちた響きでした。


何かが起こって、痛みを感じて、うっかり自他を責めそうになったとき、
「go with the flow」と、こころのなかで言ってみる。

すると、それまでキュッと縮こまっていたハートが、
ふわっと緩むのを感じます。

この“緩み”感、
ほんとにささやかで繊細な感覚だけど、
自分にとってはすごーく大事なもののような気がします。。


「このままではいけない」私から、
「あるがままに生きる」私へ・・・


自分の人生に起こる、すべてのことを信頼しよう。

泣いたっていい。 怒ったっていい。 傷ついたっていい。
閉じたっていい。 焦ったっていい。 叫んだっていい。

自分の陥るどんな振る舞いも、感情も、信頼して身を任せていいんだ。


go with the flow

起こることが起こる。

posted by 千晴 at 22:30 | Comment(7) | TrackBack(0) | 気づきの日々

2009年06月29日

その死が教えてくれたこと

+ 気づきの日々 +   
やっぱり書かずにはいられませんでした。


マイケル・ジャクソンのこと。
彼の死が気付かせてくれたこと。


10代の頃は、たくさん聴いていました。
あのかっこ良すぎるダンスをどうしても真似してみたくて、
ビデオを繰り返し見ながら一生懸命覚えたりもして。


でも、20代に入ってからは、彼自身の活動停止もあったし、
私もすっかり聴かなくなっていて、たまにゴシップ的なニュースが耳に入ると、
その繊細さゆえの危うさのようなものを痛ましく感じていた程度でした。


なのに、突然の死のニュース・・・

今となっては、そこまでマイケルに関心があるとは自覚していなかったのに、
その日一日中、なぜだかひたすら寂しくて・・悲しくて・・

なんともいえない独特の感情が、込み上げてくるのです。
自分でもこの喪失感の理由がよく分かりませんでした。


ところが夜になって、youtubeでマイケルのいろいろなステージを見ていたら、
一緒に見ていた夫が、「なんだかこの喪失感は、前に観た『竹取物語』のドラマで、
かぐや姫が月に帰っていってしまったときの感情に似ているなあ」と。

その瞬間、寂しさの理由が分かった気がしました。


光り輝く月(精神)の世界から、
人々に、天の贈り物を与えるべく降りてきたかぐや姫。
その存在は、育て親の翁と嫗だけでなく、あらゆる人たちを魅了し、帝までをも虜にした。

そんな存在がふたたび地球から離れてゆくとき、
残された人々はどれだけ寂しく、悲しい思いをしたことだろう・・・


マイケル・ジャクソンの、あの強烈に人を惹きつける、輝くような存在感と、
おそらくものすごい努力と才能の上に築かれたのであろうダンスパフォーマンス、
そして、とてもとても繊細な声。

きっと彼の魂にも、かぐや姫のような要素が少なからず含まれていたのだろうと
なぜだかすごく納得したのです。
すると、ふいに涙がポロポロと流れていきました。


でも、そんなマイケルにとって、
この世で生きることは、どれだけ厳しく苦しいことであったろうかとも思います。
50年という歳月は、私たちには短くても、彼にとっては長かったのかもしれません。


同じ時代に、こうして生を共にできたこと、
そして彼という存在からたくさんの贈り物をいただけたことに、
こころから感謝しています。

今はきっと安らかに過ごしていることを祈りながら。



posted by 千晴 at 19:11 | Comment(4) | TrackBack(0) | 気づきの日々

2009年06月03日

14歳の私を支えた歌

+ 響いた言葉 +   
思いがけず再会したこの曲。この人。
一瞬でこころが鷲づかみにされちゃいました。




やりきれないほどの孤独感。
生きることの苦しさ。

14歳の自分には、
それを説明することすらできなかった。

だけど、この一曲が、どれほどあのときの自分を支えてくれたことだろう。

そのくせ当時は詩の意味すら知らなかった(知ろうともしなかった^^)けれど、
あの歌声には、生きることを励ましてくれる何かがあった。

今、改めて調べてみたら、こんな詩だったんですね。


   越えなければならない川が 幾つもある
   だけど それを渡る道が 見つからない
   ドーバーの白い崖に沿って 
   さまよい 途方にくれる

   越えなければならない川が 幾つもある
   願いがあるから ここまで生きてこられた
   もうずっと 打ちのめされ続け 絶望の淵に立っている
   ・・そして俺は プライドのおかげで何とか生きている

   孤独が俺にまとわりついて離れない
   もう うんざりしてるのに・・
   彼女は 訳も言わずに去っていった
   ああ 俺には 泣く事しかできないのか

   行く手には 越えなければならない川が幾つもある
   でも どこから始めよう・・ 今はただ 時間稼ぎをしてるだけ
   恐ろしい罪を犯そうと
   何度も考えてしまった

   そうなんだよ 俺には 越えなければならない川が幾つもある
   だけど 渡る道を見つけられない
   ドーバーの白い崖に沿って
   さまよい 途方にくれる

   そう 行く手には 幾多の川
   そして俺は 何とか生きている 願いがあるから・・

            さ・や・ん〜sayang〜さんのブログより転載


ああ〜。

不思議です。
このジミー・クリフという、一人の人間の苦しみが、
ことばの意味すら理解していない14歳の私を支え励ます力となったのです。

またその歌声は、こうして年を重ねて、さらに深みを帯び、
15年後の私のこころに再びあかりを灯してくれました。

ああ、人間て、素敵ですね。


  苦しみは、深みのある人間をつくる。
  意識的に苦しみを受け入れ、イエスと認めると、
  苦しみの火は、意識のあかりとなる。

          エックハルト・トール「ニュー・アース」


posted by 千晴 at 22:14 | Comment(6) | TrackBack(0) | 響いた言葉

2009年05月27日

見つめる力

+ 気づきの日々 +   
新型インフルエンザの影響で、先週は、長女の通うくすのき園もお休みとなりました。

思いがけずの連休。
あ〜稽古もあって忙しいのに・・・どうしたものか。。と一瞬考えてしまいましたが、
なぜだかふと「子どもとの時間を満喫するか!」という思いが湧いてきたので、
腹をくくって(^^ゞ 実行してみました。

そうして、一日中、朝から晩まで、特に大げさなことをする訳ではないのですが、
二人のチビと一緒に過ごしながら、彼女たちをよく「見つめて」いました。


そしたら不思議。
まずは長女の夏木が、みるみる輝きはじめたのです。

「あれ、この子って、こんなに可愛いかったっけ?」

というほどに、彼女のあふれんばかりの魅力がどんどん弾けだして、眩しいくらい!
ワガママや気難しさもなくなって、ほんとに素直で優しくて楽しい子♪
一緒にいる自分も、どんどんハッピーになってくるのです。

そんな夏木のパワーに、思いがけずすっかり満たされてしまった5連休となりました。
おかげで今週また幼稚園がはじまった初日は、送りに行った後になんだか淋しくなっちゃって。。

むむむ・・おかしいぞ!?
いつもは送り出すと「ほっ」としていたのに・・・

そこでふと、

「(子どものせいで)時間が足りない!」と思い、焦っていた自分に気がつきました。
ああ、なんという観念に縛られていたのだろう!

いつも何かが足りないと思っている自分。
いつも何かをしなくてはいけないと思っている自分。
自分自身が抱えていたこの根源的な「不安」を、勝手に子どものせいにしていたのですね。
子どもの世話で一日が終わってしまうと、なにかとても無駄なことをしてしまったような気になっていたのです。

この観念のせいで、これまでいつも「いま」しかなかった貴重な子どもたちとの時間を削っていたのだろうか・・ごめんよー!子どもたちー!


そして今週に入ると、今度は次女・かさねにささやかな変化が起こりました。
これまで夏木に比べて大分育てやすかったかさねが、とにかくグズる!

洗濯物を干す、花に水をやるためにちょっと目の前から離れるだけですぐ不安な顔して怒り泣き。しょっちゅう抱っこをせがみます。

う〜ん、なんでかなあ・・・?

  !

そうだ、先週から、うっかり夏木の輝きに引っぱられて、かさねのことをあんまり見つめていなかったかも!
・・ということに気が付きました。
そこで今度はまた意識的に、かさねを見つめてみることに。

するとあらま〜やっぱり不思議!
またみるみるとチャーミングになってゆくのです。

「あれ、この子もこんなに可愛い子だったっけ?」

親としてなんだか情けないセリフですけれど、、
ほんとうに子どもって、見つめてあげると、一枚一枚花びらが開いていくように開花して、
とってもキラキラになるんですよ。


見つめること。
その人の、その人たるところに、こころの眼差しを向けること。

その力の偉大さに、改めて気付かされたのでした。

しかも子どもたちは、そうした真の見つめあい・繋がりあいを、
いつだって求めているし、いつだってしてくれる。

すごいですよね。いつだってですよ!
大人はとかくあれこれ思考しているうちに、ついそれを忘れてしまうけれど。。

でも見つめられて輝くという特性は、きっと大人も同じですよね。
次はもっと、夫くんのことも見つめてみようかな。笑

reiko.jpg


生徒さんに「この麗子像にそっくり!」といわれた次女かさね、一歳。
一つ一つのパーツは違うのに、確かに見るほどに似ているような・・・
そんな彼女も、輝いてるとほんとに可愛いです♪^^

posted by 千晴 at 11:40 | Comment(5) | TrackBack(0) | 気づきの日々

2009年04月20日

ハートの存在感

+ 響いた言葉 +   
今、YouTubeでとっても話題になってるそうですが、

とにかくこの歌声 (と素敵な人となり) が、
胸のあたりにびんびん響いてしまって仕方ありません。

歌は心 / スーザン・ボイル



どうしてこんなに、こころが震えるんだろう。

ハートって不思議。心臓って不思議。
こんなにも人と人とが繋がりあえる、何かがある。

ココには何があるのかな。


posted by 千晴 at 18:57 | Comment(4) | TrackBack(0) | 響いた言葉

2009年03月08日

へんな旅芸人。

+ 気づきの日々 +   
今月の21日と28日に、大阪と奈良で「語りの会」をやります。
私が言語造形を本格的に始めてから、三度目の公演です。

★「グリムメルヘンに耳を傾けてみませんか」

今回はピアノの調べとともにグリム童話を。
私が語るのは「へんな旅芸人」というおはなしです。

このおはなしを知っている人って、います?笑
有名なグリムのなかでも、これを知っている人はきっと少ないのではないでしょうか。

というのも一般的にはこの作品は編集不十分な未完成作品といわれているそうなのです。
ところがどっこい、
アントロポゾフィー的な観点からみると、実はとても深い叡智に満ちた物語なんですよ。

シュタイナーによるアントロポゾフィー(人智学)では、
メルヘンは一人の人間の内的な成長を描いたものである”という観点があります。

では、その観点からこの物語を捉えてみると、どのようなものが見えてくるでしょうか。

<ストーリー>
 ある旅芸人が、森の中を一人で歩いてゆきます。
 そこにやってくるのは「オオカミ」と「キツネ」と「ウサギ」。
 芸人は、彼らに対して、はじめのうちはしなやかな対応ができず、
 無理やりにねじ伏せ、押さえつけてしまいます。でも結局はその無理がたたって、
 動物たちはまた、仕返しをするべく追いかけてきてしまう・・・

 ところが最後にようやく、芸人は、自分が真に求めていた「人間・木こり」に出会います。
 さらに木こりは、後から追いかけてきた動物たちからも、芸人を守ってくれるのです。
 そうして芸人は、感謝と喜びをもって、また我が道を歩んでゆくのでした。


この芸人を自分自身と捉えて、その他の登場人動物をこころに描いてみると・・・

自分のなかの「オオカミ」とは・・・< 貪欲な意志 >・・・
自分のなかの「キツネ」とは・・・< 狡猾な思考 >・・・
自分のなかの「ウサギ」とは・・・< 気まぐれな感情 >・・・
という存在として、わたしの中にリアルに浮かび上がってきます。

そして最後に出会う「人間・木こり」とは・・・< 大いなる自分 >・・・でしょうか。
すなわち「意識の目覚め」(悟り)に至る、ということではないか、と
いまの私には予感されるのです。
それら動物たちのような存在をも照らす、光としての“目覚め”・・・


この物語は、一見すると悪気のない動物たちに対する人間のひどい仕打ち・・という
理不尽なお話のように見えます。
しかし、このように内的な観点から捉えてみると、まさしく自分自身の生き方に合わさることに気がつくのです。

 内面に湧き上がったり、降りかかってくる、さまざまな「思い」を、
 自らの力でいかに凌いでゆくのか。

ここ最近の自分のブログテーマともピッタリです。笑

ほんとうは、とくに明確な答えがあるわけではありません。
それでもこんなふうに、自分にとっての内的なリアリティを深めながら、
日々の稽古に取組んでいます。

昨日、くすのき園の「学びの会」で、シュタイナーのこんなことばを聞くことができました。

メルヘンとは、天使のような存在である。
 なぜなら物語の叡智が、いつもその人の傍にいて、見守り、
 ときに導いてくれるから。


子どもたちはメルヘンが大好きです。
彼らは意味よりもまず、ことばの「音韻」そのものの中に生きています。
でも、決して子どもだけのものではないのですね。

尽きることのないその叡智に、語りによってどれだけアクセスすることができるか。
そんなことを改めて意識しながら、残りの稽古に励みたいと思いました。



3/21(大阪)、3/28(奈良)、いずれも土曜日です。
大人として現代を生きる私たちのこころに、リアルに響くメルヘンに、
是非、耳を傾けに来てくださいね♪
posted by 千晴 at 11:03 | Comment(6) | TrackBack(0) | 気づきの日々

2009年03月01日

感情というものについて

+ 気づきの日々 +   
前回の記事について、実践する上でとても重要な補足があると感じられたので
また書いてみます。


たとえば、自分が誰かから批判や非難を受けたとします。

すると内側に、「自分を否定された(受け入れてもらえたなかった)寂しさ」
という感情が立ち上がってきます。

ところが、往々にして人は、その素直な「寂しさ」の情を認めなかったりします。
傷つくことを恐れて、反射的に、何かを守ろうとしてしまう・・


「あんな言い方、しなくてもいいのに。」(批判)
「どうせあの人は、自分とは違う考え方をする人だから。」(定義)


と言った“考え(思考)”を持ち出し、外側にあれこれ理由をくっつけて、
「寂しさ」という“思い(感情)”を誤魔化そうとするのです。


でも、たとえ誤魔化されても、「感情」そのものは解消されるわけではないんですよね。。。
そして、こころに“痛み”を残します。

この痛みは、
昨日・今日の出来事だけでなく、幼少時代とか、さらには前世にまで遡るほどに残り続けるものだそうで、それが時を越えて、今の自分のあらゆる部分に影響したりします。

恐れを捨てて正直に、きちんと向かい合って、その正体を確認すること、
そしてそれを受け入れ、手放すという作業
が、とても重要なのですね。


具体的には、その感情をただただ感じて、感じきることです。
「あ、これって自分を受け入れてもらえなかった寂しさだ」ということを、素直にみとめて、
それがなくなるまで、しっかりと感じ続ける。
「だって寂しいんだもん。うん、そりゃあ寂しいよ。寂しいってこういう感じなんだ。良い悪いじゃないんだ。・・・」
これは意識的な作業でもあるので、感じきっていても自己との同一化にはなっていません。

すると不思議ですよ。長いことずっと手ごわいと思っていた感情でも、自分でそのままみとめてあげると、いつの間にか抜けていって、気づくとあんまり気になっていないのです。^^
自分の元へやってきた「寂しさ」という感情存在が、みとめてもらえたことで勝手に自分から抜け出して、帰るべきところへ帰って成仏する・・というような感覚です。
「感情」って、ちゃんと感じると残らないものなのですね☆

これは、ホメオパシーや、以前にも紹介したホ・オポノポノとも通じるような気がします。


そして、前回の記事に書いた、「私」と「感情・思考」を分けて見るという実践のうえでも、
ココが肝心になってきます。

たとえば、そのとき抱いている感情を意識化して、「これは悲しみだ」と言ってみても、
「そんな感情は嫌いだ!」とか「よくないものだから自分と切り離すぞ!」というように受け取って、感じきることを無理やり避けようとしてしまうと、痛みは残ったままなので、ずっと苦しいのです。

「あれ?この感情は“私”ではないのに、ちゃんと意識化したのに、楽にならない!苦しいままだぞ?」といってドツボに入ってしまいます。


「感情や思考」と「私」を分けて意識すること、
そしてやってきた「感情」を誤魔化さずに向き合い、受け入れ、手放すこと。



頭で考えることよりも、
意識すること、感じることを磨いていきたいと思う、今日この頃です。
posted by 千晴 at 12:38 | Comment(5) | TrackBack(0) | 気づきの日々